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『シッダールタ』ヘルマン・ヘッセ(新潮文庫)より抜粋

シッダールタ
『シッダールタ』

ヘルマン・ヘッセ

シッダールタは言った。「・・・・。おん身はあまりにさぐり求めすぎる、とでも言うべきかもしれない。さぐり求めるために見いだすことにいたらないのだとでも」
「いったいどうして?」とゴーヴィンダはたずねた。
「さぐり求めると」とシッダールタは言った。「その人の目がさぐり求めるものだけを見る、ということになりやすい。また、その人は常にさぐり求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標に取りつかれているので、何ものをも見いだすことができず、何ものをも心の中に受け入れることができない、ということになりやすい。さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。おん僧よ、おん身はたぶん実際さぐり求める人であろう。おん身は目標を追い求めて、目の前にあるいろいろなものを見ないのだから」(P146)

 

「・・・知識は伝えることができるが、知恵は伝えることができない。知恵を見いだすことはできる。知恵を生きることはできる。知恵に支えられることはできる。知恵で奇跡を行うことはできる。が、知恵を語り教えることはできない。これこそ私がすでに青年のころほのかに感じたこと、私を師から遠ざけたものだ。私は一つの思想を見いだした。ゴーヴィンダよ、おん身はそれをまたしても冗談あるいはばかげたことと思うだろうが、それこそ私の最上の思想なのだ。それは、あらゆる真理についてその反対も同様に真実だということだ!つまり、一つの真理は常に、一面的である場合にだけ、表現され、ことばに包まれるのだ。思想でもって考えられ、ことばでもって言われうることは、すべて一面的で半分だ。すべては、全体を欠き、まとまりを欠き、統一を欠いている。崇高なゴータマが世界について説教したとき、彼はそれを輪廻と涅槃に、迷いと真、悩みと解脱とに分けなければならなかった。ほかにしようがないのだ。教えようと欲するものにとっては、ほかに道がないのだ。だが、世界そのものは、われわれの周囲と内部に存在するものは、決して一面的ではない。人間あるいは行為が、全面的に輪廻であるか、全面的に涅槃である、ということは決してない。人間は全面的に神聖であるか、全面的に罪にけがれている、ということは決してない。そう見えるのは、時間が実在するものだという迷いにとらわれているからだ。時間は実在しない、ゴーヴィンダよ、私はそのことを実にたびたび経験した。時間が実在でないとすれば、世界と永遠、悩みと幸福、悪と善の間に存するように見えるわずかな隔たりも一つの迷いにすぎないのだ」(P149-150)

 

「よく聞きなさい、友よ、よく聞きなさい!私もおん身も罪びとである。現に罪びとである。だが、この罪びとはいつかはまた梵になるだろう。いつかは涅槃に達するだろう。仏陀になるだろう。さてこの『いつか』というのが迷いであり、たとえにすぎない!罪びとは仏性への途上にあるのではない。発展の中にあるのではない。われわれの考えでは事物をそう考えるより仕方がないとはいえ。−いや、罪びとの中に、今、今日すでに未来の仏陀がいるのだ。彼の未来はすべてそこにある。おん身は罪びとの中に、おん身の中に、一切衆生の中に、成りつつある、可能なる、隠れた仏陀をあがめなければならない。ゴーヴィンダよ、世界は不完全ではない。完全さへのゆるやかな道をたどっているのでもない。いや、世界は瞬間瞬間に完全なのだ。あらゆる罪はすでに慈悲をその中に持っている。あらゆる幼な子はすでに老人をみずからの中に持っている。あらゆる乳のみ子は死をみずからの中に持っている。死のうとするものはみな永遠の生をみずからの中に持っている。いかなる人間にも、他人がどこまで進んでいるかを見ることは不可能である。強盗やばくち打ちの中で仏陀が待っており、バラモンの中で強盗が待っている。深い瞑想の中に、時間を止揚し、いっさいの存在した生命、存在する生命、存在するであろう生命を同時的なものと見る可能性がある。そこではすべてが良く、完全で、梵である。それゆえ、存在するものは、私にはよいと見える。死は生と、罪は聖と、賢は愚と見える。いっさいはそうなければならない。いっさいはただ私の賛意、私の好意、愛のこもった同意を必要とするだけだ。そうすれば、いっさいは私にとってよくなり、私をそこなうことは決してありえない。抵抗を放棄することを学ぶためには、世界を愛することを学ぶためには、自分の希望し空想した何らかの世界や自分の考え出したような性質の完全さと、この世界を比較することはもはややめ、世界をあるがままにまかせ、世界を愛し、喜んで世界に帰属するためには、自分は罪を大いに必要とし、歓楽を必要とし、財貨への努力や虚栄や、極度に恥ずかしい絶望を必要とすることを、自分の心身に体験した。−おおゴーヴィンダよ、これが私の心に浮かんだ思想の二、三なのだ」(P150-151)

 

「これは石だ」と彼は戯れながら言った。「石はおそらく一定の時間のうちに土となるだろう。土から植物、あるいは動物、あるいは人間が生じるだろう。昔なら私はこう言っただろう。『この石は単に石にすぎない。無価値で、迷いの世界に属している。だが、石は変化の循環の中に人間や精神にもなれるかもしれないから、そのゆえにこれにも価値を与える』。以前ならたぶん私はそう言っただろう。だが、今日では私はこう考える。この石は石である。動物でもあり、神でもあり、仏陀でもある。私がこれをたっとび愛するのは、これがいつかあれやこれやになりうるだろうからではなく、ずっと前からそして常にいっさいであるからだ。−これが石であり、今日いま私に石として現れているがゆえにこそ、私はこれを愛し、その定紋やくぼみのすべての中に、黄色の中に、灰色の中に、硬さの中に、たたけばおのずと発するひびきの中に、その表面の乾湿の度合いの中に、価値と意味を見る。油のような手ざわりの石も、シャボンのような手ざわりの石もある。葉のようなのも、砂のようなのもある。それぞれ特殊で、それぞれの流儀でオームをとなえている。どれもが梵である。」(P151-152)

           
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