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『ねじまき鳥クロニクル』村上春樹(新潮文庫)より抜粋

ねじまき鳥クロニクル
『ねじまき鳥クロニクル』
第1部〜3部

村上春樹

 

<第一部泥棒かささぎ編>

でも何はともあれ、それは僕が選んだものだった。もちろん僕は子供の頃にも自分自身の家庭を持っていた。しかしそれは自分の手で選んだものではなかった。それは先天的に、いわば否応なく与えられたものだった。でも僕は今、自分の意志で選んだ後天的な世界の中にいた。僕の家庭だ。それはもちろん完璧な家庭とは言えなかった。しかしたとえどんな問題があるにせよ、僕は基本的にはその僕の家庭を進んで受け入れようとしていた。それは結局のところ僕自身が選択したものだった。もしそこに何かしらの問題が存在するなら、それは僕自身が本質的に内包している問題そのものであるはずだと考えていた。(p89)

 

「どちらがいいどちらが悪いという種類のものではない。流れに逆らうことなく、上に行くべきは上に行き、下に行くべきは下に行く。上に行くべきときには、いちばん高い塔をみつけてそのてっぺんに登ればよろしい。下に行くべきときには、いちばん深い井戸をみつけてその底に下りればよろしい。流れのないときには、じっとしておればよろしい。流れに逆らえばすべては涸れる。すべてが涸れればこの世は闇だ。<我は彼、彼は我なり、春の宵>。我を捨てるときに、我はある」(p98)

 

井戸は、この家屋に属する他の事物と同じように、かなり長い期間にわたって放棄され、見捨てられてしまっているようだった。そこには、<圧倒的な無感覚>とでも呼びたくなるようなものが感じられた。あるいは人々が視線を注ぐことをやめると、無生物はもっと無生物的になるのかもしれない。(p123)

 

「でもね、ねじまき鳥さん、人生ってそもそもそういうものじゃないかしら。みんなどこかしら暗いところに閉じ込められて、食べるものや飲むものを取り上げられて、だんだんゆっくりと死んでいくものじゃないかしら。少しずつ、すこしずつ」
僕は笑った。「君は君の歳にしては、ときどきものすごくペシミスティックな考え方をするね」
「そのペシなんとかってどういうこと?」
「ペシミスティック。世の中のくらいところだけを取り出して見るっていうことだよ」
ペシミスティック、と彼女は何度か口の中で繰り返した。
「ねじまき鳥さん」と彼女は僕の顔をじっと睨むように見上げながら言った。「私はまだ十六だし、世の中のことをあまりよくは知らないけれど、でもこれだけは確信をもって断言できるわよ。もし私がペシミスティックだとしたら、ペシミスティックじゃない世の中の大人はみんな馬鹿よ」(p211)

 

「金で買えるものは、得とか損とかあまり考えずに、金で買ってしまうのがいちばんなんだ。余分なエネルギーは金で買えないもののためにとっておけばいい」(p214)

 

そのような荒涼とした風景の中を黙々と進んでいると、ときおり自分という人間がまとまりを失って、だんだんほどけていくような錯覚に襲われることがあります。まわりの空間があまりにも広すぎるので、自分という存在のバランスを掴んでいることがむずかしくなってくるのです。おわかりになりますでしょうか?風景と一緒に意識だけがどんどん膨らんでいって、拡散していって、それを自分の肉体に繋ぎとめておくことができなくなってしまうのです。それがモンゴルの平原の真ん中で私の感じたことでした。何という広大なところだろうと私は思いました。それは荒野というよりはむしろ海に近いものであるように私には感じられました。太陽が東の地平線から上り、ゆっくりと中空を横切り、そして西の地平線に沈んでいきました。私たちのまわりで目に見えて変化するものといえば、ただそれだけでした。その動きの中には何かしら巨大な、宇宙的な慈しみとでもいうべきものが感じられました。(p253-254)

 

蒙古の夜明けというのはそれは見事なものでした。ある瞬間に地平線が一本の仄かな線となって闇の中に浮かび上がり、それがすうっと上の方に引き上げられていきました。まるで空の上から大きな手がのびてきて、夜の帳を地表からゆっくりとひきはがしているみたいに見えました。それは雄大な風景でした。その雄大さは、さきほども申しましたように、私という人間の意識の領域を遥かに越えた種類の雄大さでありました。それを見ているうちに私には、自分の生命がそのままだんだん薄らいで消えていくようにさえ感じられました。そこには人の営みというような些細な物事はみじんも含まれておりませんでした。生命と呼べるようなものは何ひとつ存在しなかった太古から、これと同じことが何億回も何十億回も行われてきたのです。(p265-266)

 

「人間の運命というのはそれが通りすぎてしまったあとで振り返るものです。先回りして見るものではありません。」(p273)

 

何かの気配にはっと目を覚ましたとき、光は既にそこにありました。私は自分が再びその圧倒的な光に包まれていることを知りました。私はほとんど無意識に両方の手のひらを大きく広げて、そこに太陽を受けました。それは最初のときよりずっと強い光でした。そして最初のときよりもそれは長く続きました。少なくとも私にはそう感じられました。私はその光の中でぼろぼろと涙を流しました。体じゅうの体液が涙となって、私の目からこぼれ落ちてしまいそうに思えました。私のからだそのものが溶けて体液になってそのままここに流れてしまいそうにさえ思えました。この見事な光の至福の中でなら死んでもいいと思いました。いや、死にたいとさえ私は思いました。そこにあるのは、今何かがここで見事にひとつになったという感覚でした。圧倒的なまでの一体感です。そうだ、人生の真の意義とはこの何十秒かだけ続く光の中に存在するのだ、ここで自分はこのまま死んでしまうべきなのだと私は思いました。(p302-303)

 

しかし本田さんはあのハルハ河の出来事を話題にすることは避けているようでしたし、私もまたそのことについてあまり喋りたいとは思いませんでした。それは私たち二人にとってあまりにも大きな出来事だったからです。私たちはそれについて何も語らないということによって、その体験を共有しておったのです。(p308)

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<第2部予告する鳥編>

人々はみんな難しい陰気な顔をしていた。それはムンクがカフカの小説のために挿絵を描いたらきっとこんな風になるんじゃないかと思われるような場所だった。(p101)

 

「でもね、さっきじっとクラゲを見ているうちに、私はふとこう思ったの。私たちがこうして目にしている光景というのは、世界のほんの一部にすぎないんだってね。私たちは習慣的にこれが世界だと思っているわけだけれど、本当はそうじゃないの。本当の世界はもっと暗くて、深いところにあるし、その大半がクラゲみたいなもので占められているのよ。私たちはそれを忘れてしまっているだけなのよ。そう思わない?地球の表面の三分の二は海だし、私たちが肉眼で見ることのできるのは海面というただの皮膚にすぎないのよ。その皮膚の下に本当にどんなものがあるのか、私たちはほとんど何も知らない」(p106-107)

 

そこにあるはずの自分の体を自分の目で見ることができないというのは不思議なものだった。暗闇の中でただじっとしていると、自分がそこに存在しているという事実がだんだんうまく飲み込めなくなってくるのだ。だから僕はときどき軽い咳払いをしたり、手のひらで自分の顔を撫でてみたりした。そうすることで僕の耳は僕の声の存在を確かめ、僕の手は僕の顔の存在を確かめ、僕の顔は僕の手の存在を確かめることができた。
でもいくら努力しても、僕の肉体は、水の流れにさらわれていく砂のように、少しずつその密度と重さをなくしていった。まるで僕の中で無言の熾烈な綱引きのようなことが行われていて、僕の意識が少しずつ僕の肉体を自分の領域に引きずり込みつつあるようだった。この暗闇が本来のバランスを大きく乱しているのだ。肉体などというものは結局のところ、意識を中に収めるために用意された、ただのかりそめの殻に過ぎないのではないか、と僕はふと思った。その肉体を合成している染色体の記号が並べかえられてしまえば、僕は今度は前とはまったく違った肉体に入ることになるのだろう。(p115)

 

「よくご存知のように、人生の過程において私たちは様々な種類の苦痛を体験します」とその男は静かな、よくとおる声で言った。「肉の痛みがあり、心の痛みがあります。私もこれまでにいろんなかたちの苦痛を経験してきましたし、皆さんも同じだと思います。しかしその苦痛の実態を誰かに対してことばで説明するのは、多くの場合とてもむずかしいことです。自分の痛みは自分にしかわからない、と人は言います。しかし本当にそうでしょうか?私はそうは思いません。たとえば誰かが本当に苦しんでいる光景を目の前にすれば、私たちもまたその苦しみや哀しみを自分自身のものとして感じることがあります。それが共感する力です。おわかりですか」
彼は言葉を切って、もう一度ぐるりと店内を見回した。
「人が歌を歌うのも共感する力を持ちたいと思っているからです。自分という狭い殻を離れ、多くの人々と痛みや喜びを共有したいと思うからです。でもそれはもちろん簡単なことではありません。だからみなさんにここで、いわばひとつの実験として、もっと簡単な物理的共感を体験していただきたいのです」
いったいこれから何が起こるのだろうと、みんなは息をひそめてステージを見守っていた。沈黙の中で男は間を置くように、あるいは精神を統一するかのように、じっと虚空を見つめていた。それから彼は、蝋燭の火の上に黙って左の手のひらをかざした。そして少しずつ、少しずつ、その手のひらを炎の先に近づけていった。客の一人がうなりともため息ともつかない声をだした。やがてその炎の先が彼の手のひらを焼くのが見えた。じりじりという音さえ聞こえてきそうだった。女の客が小さな硬い悲鳴をあげた。それ以外の客は凍り付いたようにその光景を見ていた。男は激しく顔を歪めながら、その苦痛に耐えていた。いったいこれは何なんだ、と僕は思った。どうしてこんな馬鹿な無意味なことをやらなくちゃいけないんだ。口の中がからからに渇いていくのが感じられた。五秒か六秒それを続けたあとで、彼は火からゆっくりと手を離し、蝋燭を載せた皿を床に置いた。そして右の手のひらと左の手のひらをぴったり合わせるようにして組んだ。
「ごらんになったように、苦痛は文字どおり人の肉を焼きます」と男は言った。彼の声はさっきまでの声とまったく同じだった。静かで張りのあるクールな声だ。顔からは苦悶のあとはすっかり消えていた。そこには微かな微笑みさえ浮かんでいた。「そしてみなさんはそこにあるはずの痛みを、まるで我がことのように感じ取ることができます。それが共感する力です」(p129-130)

 

「よろしいですか、すべてのものごとは複雑であると同時にとても簡単なのです。それがこの世界を支配する基本的なルールです」と彼は言った。「そのことを忘れてはなりません。複雑に見えるものごとも − もちろんそれは実際に複雑であるわけなのですが − その動機においてはきわめて単純なのです。それが何を求めているか、それだけのことです。動機というものはいうなれば欲望の根です。大事なのは、その根をたどることです。現実という複雑さの地面を掘るのです。それをどこまでも掘っていくのです。その根のいちばん先のところまでどこまでもどこまでも掘っていくのです。そうすれば」と言って、彼は背後の地図を指で示した。「すべてはやがて明らかになります。それが世界のありようです。」(p133)

 

「もし人間というのが永遠に死なない存在だとしたら、いつまでたっても消滅しないで、歳を取るということもなくて、この世界でずうっと永遠に元気で生きていけるものだとしたら人間はそれでもやはり、私たちが今こうやっているみたいに、一生懸命あれこれものを考えたりするのかしら?つまりさ、私たちは多かれ少なかれいっぱいいろんなものごとについて考えるでしょう。哲学とか、心理学とか、論理学とか。あるいは宗教、文学。そういう種類のややこしい思考とか観念とかいうものは、もし死というものが存在しなかったなら、あるいはこの地球の上には生じてこなかったんじゃないかしら?つまり −」
……………………
「つまり − 私は思うんだけれど、自分がいつかは死んでしまうんだとわかっているからこそ、人は自分がここにこうして生きていることの意味について真剣に考えないわけにはいかないんじゃないのかな。だってそうじゃない。いつまでもいつまでも同じようにずるずると生きていけるものなら、誰が生きることについて真剣に考えたりするかしら。そんな必要がどこにあるかしら。もしたとえ仮に考える必要がそこにあったとしてもよ、『時間はまだまだたっぷりあるんだ。またいつかそのうちに考えればいいや』ってことになるんじゃないかな。でも実際にはそうじゃない。私だちは今、ここでこの瞬間に考えなくちゃいけないのよ。明日の午後私はトラックにはねられて死ぬかもしれない。三日後の朝にねじまき鳥さんは井戸の底で飢え死にしているかもしれない。そうでしょう?何が起こるかは誰にもわかんないのよ。だから私たちが進化するためには、死というものがどうしても必要なのよ。私はそう思うな。死というものの存在が鮮やかで巨大であればあるぼど、私たちは死にもの狂いでものを考えるわけ」(p161-163)

 

「結婚したとき、僕らがやろうとしていたのはそれだったんだ。僕はそれまでに存在した僕自身というものから抜け出したかった。クミコにとってもそれは同じだった。僕らはその新しい世界で、本来の自分自身にぴったりとした生き方ができると思っていたんだ」
……………………
「僕の言うことはわかるかな」と僕は質問してみた。
「わかるわよ」
「それについて君はどう思う?」
「私はまだ子供だし、結婚がどういうものかなんて知らない」と笠原メイは言った。「だからあなたの奥さんがどういう気持ちで他の男の人とつきあって、あなたを捨てて家を出ていったかなんてもちろんわからない。でも今の話を聞いた限りではね、あなたはそもそもの最初からちょっと間違った考えかたをしていたような気がするの。ねえ、ねじまき鳥さん、あなたが今言ったようなことは誰にもできないんじゃないかな。『さあこれから新しい世界を作ろう』とか、『さあこれから新しい自分を作ろう』とかいうようなことはね。私はそう思うな。自分ではうまくやれた、別の自分になれたと思っていても、そのうわべの下にはもとのあなたがちゃんといるし、何かあればそれが『こんにちは』って顔を出すのよ。あなたにはそれがわかっていないんじゃない。あなたはよそで作られたものなの。ねえ、ねじまき鳥さん、そんなことは私にだってわかるのよ。どうして大人のあなたにそれがわからないのかしら?それがわからないというのは、たしかに大きな問題だと思うな。だからきっとあなたは今、そのことで仕返しされているのよ。いろんなものから。たとえばあなたが捨てちゃおうとした世界から、たとえばあなたが捨てちゃおうと思ったあなた自身から。私の言ってることわかる?」
僕は黙って、僕の足もとのあたりを包んでいる暗闇を見ていた。僕には何を言えばいいのかよくわからなかった。
「ねえ、ねじまき鳥さん」と彼女は静かな声で言った。「考えなさい。考えなさい。考えなさい」。そして再び井戸の口は蓋でぴたりと塞がれた。(p168-169)

 

「コツというのはね、まずあまり重要じゃないところから片づけていくことなんだよ。つまりAからZまで順番をつけようと思ったら、Aから始めるんじゃなくて、XYZのあたりから始めていくんだよ。お前はものごとがあまりにも複雑に絡み合っていて手がつけられないと言う。でもそれはね、いちばん上からものごとを解決していこうとしているからじゃないかな。何か大事なことを決めようと思ったときはね、まず最初はどうでもいいようなところから始めた方がいい。誰が見てもわかる、誰が考えてもわかる本当に馬鹿みたいなところから始めるんだ。そしてその馬鹿みたいなところにたっぷりと時間をかけるんだ」(p312)

 

「たとえばだね、どこかに店を一軒出そうとする。レストランでもバーでもなんでもいいよ。まあ想像してみろよ、自分がどこかに店を出そうとしているところ。いくつかの場所の選択肢がある。でもどこかひとつに決めなくちゃならない。どうすればいい?」
僕は少し考えてみた。「まあそれぞれのケースで試算することになるでしょうね。この場所だったら家賃が幾らで、借金が幾らで、その返済金が月々幾らで、客席がどのくらいで、回転数がどれくらいで、客単価が幾らで、人件費がどれくらいで、損益分岐点がどれくらいか…そんなところかな」
「それをやるから、大抵の人間は失敗するんだ」と叔父は笑って言った。「俺のやることを教えてやるよ。ひとつの場所が良さそうに思えたら、その場所の前に立って、一日に三時間だか四時間だか、何日も何日も何日も、その通りを歩いていく人の顔をただただじっと眺めるんだ。何も考えなくていい。何も計算しなくていい、どんな人間が、どんな顔をして、そこを歩いて通り過ぎていくのかを見ていればいいんだよ。まあ最低でも一週間くらいはかかるね。そのあいだに三千人か四千人くらいの顔は見なくちゃならんだろう。あるいはもっと長く時間がかかることだってある。でもね、そのうちふっとわかるんだ。突然霧が晴れたみたいにわかるんだよ。そこがいったいどんな場所かということがね。そしてその場所がいったい何を求めているかということが。もしその場所が求めていることと、自分の求めていることとのあいだに共通点なり妥協点があるとわかったら、それは成功の尻尾を掴んだことになる。あとはそれをしっかり掴んだまま離さないようにすればいい。でもそれを掴むためには、馬鹿みたいに雨の日も雪の日もそこに立って、自分の目で人の顔をじっと見ていなくちゃならないんだよ。計算なんかはあとでいくらでもできる。俺はね、どちらかというと現実的な人間なんだ。この自分のふたつの目で納得するまで見たことしか信用しない。理屈や能書きや計算は、あるいは何とか主義やなんとか理論なんてものは、だいたいにおいて自分の目でものを見ることができない人間のためのものだよ。そして世の中の大抵の人間は、自分の目でものを見ることができない。それがどうしてなのかは、俺にもわからない。やろうと思えば誰にだってできるはずなんだけどね」(p313-314)

 

「時間をかけることを恐れてはいけないよ。たっぷりと何かに時間をかけることは、ある意味ではいちばん洗練されたかたちでの復讐なんだ」
「復讐」と僕は少し驚いて言った。「なんですか、その復讐というのは。いったい誰に対する復讐なんですか?」
「まあ、お前にもそのうちに意味はわかるよ」と叔父は笑って言った。(p315)

 

「いいですか、岡田様、岡田様もご存知のように、ここは血なまぐさく暴力的な世界です。強くならなくては生き残ってはいけません。でもそれと同時に、どんな小さな音をも聞き逃さないように静かに耳を澄ませていることもとても大事なのです。おわかりになりますか?良いニュースというのは、多くの場合小さな声で語られるのです。どうかそのことを覚えていてください」(p339)

 

「なんていうのかな、あなたのことを見ていると、まるであなたが私のために一生懸命何かと闘ってくれているんじゃないかという気がすることがときどきあるの。変なはなしだけど、そう思うとね。私まで一緒になってだらだら汗をかいちゃうのよね。わかるかな?あなたはいつも涼しい顔をして、何がどうなっても自分とは関係ないという風に見える。でも本当はそうじゃない。あなたはあなたなりに一生懸命闘っているのよね。他人にはそう見えなくてもね。でなきゃわざわざあんな井戸の中になんか入らないもの。そうでしょ?でももちろん、ねじまき鳥さんは私のためではなく、あくまでクミコさんを見つけるために、ばたばたとみっともなく何かを相手にトックミあっているのよね。だから何も私がわざわざ汗かくことなんかないのよ。それはわかってるんだけれど、それでもやっぱり、ねじまき鳥さんはきっと私のためにも闘っているんだという気がするんだ。ねじまき鳥さんはたぶんクミコさんのために闘いながら、それと同時に、結果的に他のいろんな人のためにも闘っているんじゃないかってね。だからこそあなたは、ときどきほとんどバカみたいに見えるんじゃないかしら。そういう気がするな。でもね、ねじまき鳥さん、私はそういうあなたを見ていると、ときどきキツくなるの。ほんとうにキツくなるの。だってあなたにはぜんぜん勝ち目がなさそうに見えるんだもの。もし私がどうしてもどっちかにお金を賭けなくちゃならないとしたら、悪いとは思うけど、私はきっとねじまき鳥さんが負ける方に賭けると思う。ねじまき鳥さんのことは好きだけど、だからって破産したくもないもの」
「それはとてもよくわかるよ」
「私はあなたが駄目になっていくところを見たくないし、これ以上だらだら汗もかきたくないの。だから私はもう少しマトモな世界に戻ろうと思うのよ。でもね、もしねじまき鳥さんにここで会わなかったら、この空き家の前で会わなかったら、たぶんこんな風にはならなかったと思うんだ。学校に戻ろうなんてことはまず考えなかったわね。きっとあまりマトモじゃないところでまだぐずぐずしていたと思う。そういう意味では、まあねじまき鳥さんのおかげっていうわけね」と彼女は言った。「ねじまき鳥さんもぜんぜん役に立たないっていうわけじゃないのよ」
僕はうなずいた。誰かに褒められたのはほんとうに久しぶりだった。
「ねえ、握手してくれない」と笠原メイは言った。
僕は彼女の小さな日焼けした手を握った。そしてその手がどれほどちいさかったかということに改めて気づいた。まるで子供じゃないか、と僕は思った。
「さよなら、ねじまき鳥さん」と彼女はもう一度言った。「どうしてクレタ島に行かなかったの?どうしてここから逃げださなかったの?」
「僕には賭ける側を選べないからだよ」(p350-351)

 

あるいは僕は負けるかもしれない。僕は失われてしまうかもしれない。どこにもたどり着けないかもしれない。どれだけ死力をつくしたところで、既にすべては取り返しがつかあいまでに損なわれてしまったあとかもしれない。僕はただ廃虚の灰を空しくすくっているだけで、それに気がついていないのは僕ひとりかもしれない。僕の側に賭ける人間はこのあたりには誰もいないかもしれない。「かまわない」と僕は小さな、きっぱりとした声でそこにいる誰かに向かって言った。「これだけは言える。少なくとも僕には待つべきものがあり、探し求めるべきものがある」(p361)

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<第3部鳥刺し男編>

私はそうやってアリさん的にわきめもふらず働くことによって、だんだん「ほんとうの自分」に近づいているような気さえしちゃうのです。なんというのかな、うまく説明できないけれど、自分について考えないことでぎゃくに自分の中心に近づいていくというみたいなところがあるのね。(p195)

 

私の作ったかつらがこの世界のどこかで誰かのあたまにかぶられているというのは、なんだかステキな気分のするものです。自分という人間が何かにきっちりと結びついているというのかな。(p197)

 

私はここでの仕事を楽しんでいるというわけではないのです。私はただ、この仕事を全面的に受け入れようとしているだけです。かつらを作っているときには、かつらを作ることだけを考えています。それもけっこう真剣に、ほんとうにじっとりとからだに汗がにじんでくるくらいしんけんに、考えちゃうのです。(p200)

 

きっと時間というのはABCDと順番に流れていくものじゃなくて、てきとうにあっちに行ったりこっちに来たりするものなんですね。(p200)

 

どうすればものごとの効率がよくなるのか、戦後の歳月をとおしてそれ以外の哲学、あるいは哲学に類するものを我々日本人は生み出してきただろうか?しかし効率性は方向性が明確なとくに有効な力である。ひとたび方向性の明確さが消滅すれば、それは瞬時に無力化する。海の真ん中で遭難して方向を失ったときに、力のある熟練した漕ぎ手が揃っていても無意味なのと同じだ。効率よく間違った方向に進むのは、どこにも進まないより悪いことである。正しい方向性を規定するのはより高度な職能を持つプリンシプルでしかない。しかし我々は今のところそれを欠いている。決定的に欠いている。(p280-281)

 

しかし成長するにつれて、彼はその顔のあざを、切り離すことのできない自分の一部として、「受け入れなくてはならないもの」として静かに受け入れる方法を少しずつ覚えていった。そのことも彼の運命に対する宿命的諦観を形作った要因のひとつであったかもしれない。(p318)

 

運命は何があっても必ずその取り分を取っていくし、その取り分を手にいれるまでどこにも行かないのだ。彼はそう確信していた。(p318-319)

 

彼はいわゆる世間一般の「運命論者」ではなかった。しかしそれにもかかわらず、彼は生まれてこの方、自分が何かを主体的に決断しているという実感をどうしても抱くことができなかった。彼は自分が常に運命の都合どおりに「決断させられている」と感じていた。たとえ今度こそ何かをうまく自分の自由意志で決断したと思っても、あとになって考えてみれば、実際には外部の力によって自分があらかじめ「決断させられていた」ことを思い知らされるのが常だった。それは巧みに「自由意志」のかたちにカモフラージュされていただけなのだ。それは彼をおとなしく手なずけるだめの撒き餌のようなものにすぎなかった。あるいは彼が主体的に決断しているのは、よく見ると実際には決断の必要もない些細なものごとばかりだった。彼は自分を、実権を握った摂政の強制によってただ国璽を押すだけの、名目的な国王みたいに感じていた。(p319)

           
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